事務所でも自宅でも、人に何かを頼むのが基本的に苦手です。特に掃除に限らないのですが、掃除がわかりやすいかなと思って限定しました。
なぜ苦手か。掃除をしようと思っていない人、掃除の必要だと思っていない人に、掃除を頼んでも、掃除にならないと考えるからです。だって、頼まれた人は掃除をしようと思っていないわけです。その状態で特になんとも思っていない、後からでもいいか、と思っているのだから、今掃除をしないんだ。それをお願いすることで、お互い不幸になるだけだと思うからです。掃除を頼んだ私は、掃除の必要性を感じてこうしたいという最終形を思い描きながら、依頼する。一方で掃除を頼まれた方は、忙しいのになぁ、今掃除しなくてもいいんじゃないかなぁ、と思っているにもかかわらず頼まれてしまう。その状況は互いの不幸以外何物でもないのではないでしょうか?
だったら、掃除の必要性を感じた人が掃除をすればいいわけで、なら、自分でしよ、と思うわけです。頼まれたからする掃除、つまり、自分が掃除の必要性を感じていない人が掃除をしたところで、きれいにならない、いや、掃除にならないわけです。掃除をしなさい、してほしい、と頼んだところで、掃除の必要性を共有してもらってなければ「いい掃除」になるはずがない。
だからといって、私が掃除をしない人に対して何か不平不満を思うわけではありません。逆に、この状況において、私は掃除をしようと思った、別の人は特に掃除をしようと思わなかった、という差が生じることが面白い、何が原因なんだろうと思ってしまいます。
でも、それは掃除に限らず、洗濯も、食事の準備も、仕事も、みんな一緒ですよね。
新型コロナウイルスの感染拡大防止のために、Stay Homeと叫ばれて在宅時間が長くなり、家族と一緒にいる時間が長くなりました。同時に、家族間で小競り合いから大げんかまで争いも勃発するようになったようです。でも、必要性の感じ方の違いが原因であるならば、その状況・違いを「面白い」と思ってみてはどうでしょうか? 見えなかった・気づかなかったものが見えるようになるかもしれません。