先生とよばないで

 設計事務所の設計・監理者は、施工者との間の中で、よく施工者に「先生」とよばれます。施工者も「先生」と呼ぶのがどうやらこの業界の習慣のようです。私もこの業界に足を踏み入れた頃は非常に奇異に映りました。(最近は残念ながらなれてしまいました。でも、未だに変だとは思っています。)施工者が「先生」「先生」と呼ぶもんだから、そのうち施主までもが「先生」と言い出す始末。

 ところで、施工者はなぜ設計者のことを「先生」と呼ぶのでしょうか? これには二つの側面があります。一つは設計者側の要望(?)です。残念なことに「先生」ち呼ばれてうれしく思う設計者が少なからずいるのです。もう一つは、施工者側の都合です。「先生。先生」と設計者を(表面上は)崇めたてておくと、すんなり物事が進み、施工者の都合のいいように事を運びやすいからです。

 設計者というのは現実には施工をするわけではないです。従って、現場のこと、施工上の都合などについてはあまり知らない人が多いのです。知らないにもかかわらず、えらそうにしたり、自分のデザインを押し通したり、施工者に無理難題を言う設計者が実に多いのです。そんな人たちはたいてい「先生」と呼ばれたらとてもうれしく思う人種で、施工者もそんな心理をよく知っていて「先生と呼んでいたら機嫌良くやってくれるだろう」「自分たちの都合の良いように進むだろう。」「この程度のことやっていてもわからないだろう」と思って適当に手を抜いたり、見えないところでいい加減な工事をすることも多いです。

 それよりも、私が「先生」と呼ばれるのを嫌うのは、「先生」と呼ばれる側と呼ぶ側の人間関係に上下関係ができるからです。つまり「先生」と呼ばれる側が上で呼ぶ方が下という関係になるのです。本来施工者と設計者の関係は上下関係ではありません。施工者は実際に作っていく(施工していく)プロです。設計者は施主に成り代わって施主の希望や思いを技術的にサポートしていく、つまり考えるプロです。建築というのは「考える人」と「つくる人」が別々に機能して初めて良いものができるのです。一見すると「考えながらつくる」方が、つまり一人なり同じ組織で両方をした方が都合がいいように思われるかもしれません。しかし、どんなに強い人間であっても「考えながら作る」という行為はつくる側にとって都合のいいようにしか考えません。それはとても大切なことです。しかし、考える人とつくる人が一体で、建築についての知識や技術が全くない素人の施主が置き去りにされるということは、施主にとってわからないところで不利益を被ることになることは想像に難くありません。

 さて話を元に戻すと、つまり設計者(考える人)と施工者(つくる人)が同じ立場で一つの建物を造っていくと言うことが実はとても大切であること言うことです。そこに、上下関係が生じると言うことは施工者(つくる人)の責任を放棄することにつながり、その責任を設計者が負うことになります。設計者の提案に対して施工者とともに検討していく、というスタイルをとることで、施工者にも責任を感じてもらい、緊張感のある仕事をしたいと思っています。

 だから、「先生」と呼ばないでほしいのです。が、この業界のこのしきたりはどうやらなかなか抜けられそうにありません。少なくとも私ができることは、「先生」と呼ばれて喜んだりはしない、という自己防衛しかなさそうです。