読み書きそろばん

私は、寺子屋で「読み書きそろばん」を多くの子供たちに教えていたからこそ、我が国は江戸時代というまれにみる繁栄を築けたのではないかと考えます。

もっとも「読み書きそろばん」ができたのは一部のひとだけだ、とか繁栄したのは都会だけだ、とかいろいろと反論はできるでしょうが、やはり物事を冷静に正しく判断するための基本中の基本が、この「読み書きそろばん」であることは異論がないと思います。

ところが、

最近の大学生ぐらいの年代の人たちをみていると、このいずれもできない、という致命的な人たちの割合がかなり増えていることに、愕然とします。

最初に気になったのは「そろばん」。
つまり、計算ができないのです。正確に言うと、できないわけではないんですが、時間がものすごくかかったり、間違った答えになってもおかしいと思わなかったり、同じ間違いを何度も繰り返したり、といろいろとしでかしてくれるわけです。

そう思って、自分たちの世代と今の子供たちの違いはどこにあるのだろう、と考えたところ、「計算量の違い」ではないかというひとつの仮説に至ったのです。そういえば、私たちの世代は、小学校から高校生までの間、山のような計算ドリルをさせられ、あるときは割り算の筆算を何十問・何百問とさせられ、あるときは因数分解100問を教室で競わされ、あるときは微分方程式をひたすら解いていたわけです。

今の子供たちは計算をしなさすぎです。夏休みの宿題なんて、数学だけで問題集2~3冊あるのは普通でした。今はプリント数枚なんですから、その違いは火を見るよりも明らかです。

計算量が違うと前述のように、
・ものすごく時間がかかる→計算の要領が見通せない。どうすれば効率よく計算できるかわからない。
・間違った答えになってもおかしいと思わない→答えの見通しを立てて計算しない。検算しない。
・同じ間違いを何度も繰り返えす→本来小学校などで経験することをいまする
という、ことになってしまいます。

次に気になったのが「読み」
字が読めない。漢字を知らない。
これも練習量といえばそれまで。漢字ドリルを何冊やったか、ってことにつきるのでしょうが、本だってろくに読んでないのでしょうね。

ただ字が読めないだけならば辞書でも引けばわかるので問題にはなりません。しかし事態は深刻で、字が読めない=文章が理解できない、ということに直結しているのです。つまり、問題文が何を問うているのか、相手が何を思っているのかを理解することができないのです。問題が何を問うているのかわからないというのは、致命的です。国語のみならず、数学、理科、社会、英語に至るまで、「問題が理解できない」わけですから。
こうなったら、計算スピードの問題以上に深刻なのです。

そして最後に「書き」です。
「書く」というのは何も難しい文章や長い文章を書く必要はありません。書くということは、文章で物事を論理的に構成するということです。数学の問題を順番に正しく解けるということです。筆算がきれいに書けない人はどうしても計算ミスが増えます。文章を論理的に構成できない人は数学を解けないわけです。

もう一ついうと、「自分が何を伝えたいかをきちんと書けない人」は自分が今どう思っているかを「言えない」人なわけです。だから、今の子供たち(含大学生)は自分の感情や考えをうまく伝えられないのでしょうね。

「読み書きそろばん」なんて、ひたすら何度も何度も練習するだけでできるようになるわけです。それを今の教育システムはしなさ過ぎなのかもしれません。

「読み書きそろばん」なんて、直接人生に役に立ちません。今の時代はコンピューターがあって、計算や文章はコンピューターでできるわけですから。ただ、コンピューターは計算や文章作成のお手伝いをしてくれるだけであって、自分が伝えたいことや思いを代弁してくれるわけではありません。

「読み書きそろばん」大事だと思うのですが・・・