エンジニアの「魂」

今回は、私が「ふぉあ・すまいる No.15 (2006/04/28発行)」という欠陥住宅被害全国連絡協議会(欠陥住宅全国ネット)の発行する機関紙に掲載された「耐震偽装問題・私はこう考える」から転載します。


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 一建築士による構造計算書偽装問題が報じられてこの執筆時(3月末)で約4ヶ月が経過しました。その間、関係者の国会での証人喚問、国交省の告発などがあったにもかかわらず、今に至るまで誰も責任を問われることもなくただただ世間から忘れ去られようとしています。ぼっと火がついて一気に燃えて一気に静寂を取り戻す。まるで打ち上げ花火のようです。一方で建築基準法や建築士法の改定論議は国交省を中心として進められているようであり、そのアンバランスさはとても不思議な気分です。


 一連の事件は、マンション購入者をはじめ社会全体に建物の安全性に対する不安を一時的にかき立てたものの、時間と共にその傷口は小さくなり、一般の人からはいずれ対岸の火事になるのかもしれません。私はこの事件を一過性のものにするべきではないと思いながらも、流れの速い現代において、そうなってしまうかもしれない現実も認めざるを得ないとも考えます。建築基準法や建築士法の今後の改訂論議やこの事件の背景などについては各メディアをはじめ様々な意見を目にすることができますので、私はもう少し大局的に見た意見をまとめたいと思います。


 どこかの「四点セット」ではありませんが、今私たちの身の回りには様々な危険、それも自分たちではどうすることもできない危険が渦巻いています。建物の安全性を揺るがした今回の事件だけでなく、JRや航空会社などの輸送機関の安全性、BSEや雪印で問題になった牛乳・残留農薬などの食品の安全性、子供用の輸入おもちゃに混入していた鉛問題などなど、おそらくこの数年でおこったことだけでも枚挙に遑がありません。それらの一連の問題の根幹は何なのでしょうか? 「経済性(効率)優先」と一言で言ってしまえばそれまでですが、私にはどうもそれだけではないように思います。


 私は建築設計に携わる一技術屋です。自分の「技術や知識」を必要としている人に提供して報酬を得ている一人です。建築でも、大工さん、左官屋さん、設備屋さん、先の例でいうと鉄道・航空会社、食品を提供する農家・・・。それら全て私と同じ「技術・知識」を製品・商品に加えて一般の消費者に提供しているわけです。私は自分の仕事に対して「正当な報酬を受けているか否か」ということを考えて仕事をしたことがありません。別の言い方をすると「自分の仕事であれば費用はいくらであっても自分の仕事をする」と考えています。報酬が相場から見て安いか高いかは後から考えることであって、「安いから手を抜こう」「高いから精一杯サービスをしよう」といは考えません。高いか安いかは私が決めるのです。「技術屋」や「職人さん」と呼ばれる人たちは常に新しい技術・よい技術を求め、なるべく安く提供する努力をするものです。


 しかし、私が欠陥住宅やトラブルになった案件の工務店やその職人さん、また見聞きする周りの職人さんやこれから技術屋を目指す若い人たちを見ていると、いわゆる「職人気質」が非常に希薄になってきているのではないかと感じます。報酬が百円であっても一万円であっても、自分の仕事に対してプライドと責任を持つ、という気概が現場や建築業界に見えなくなってきています。おそらく他の業界でもそうかもしれません。自分が気に入らなければ、気に入るまで徹夜してでも身銭を切ってでも仕上げる、という「技術者」の“たましい(魂)”が社会全体から一気に消えていったことが、この一連の問題の根本にあるのではないかと考えます。


 “たましい”を取り戻すための方法は様々あるでしょうが、最も重要だと私が考えていることは「教育」です。それは何も「学校で教えるもの」だけを指すのではなく、もっと広い意味で家庭内であったり、社会全体であったりすると考えます。大人が自分の仕事にプライドと責任を持っていなければ、その大人を見て育つ子供が持てるはずがありません。


 耐震偽装問題は技術的な側面において様々な論の展開が可能だと思います。しかし、私はこれら一連の事件は「大事なものを忘れているぞ」という社会の警鐘に思えてならないのです。