「建築家」の「作品」は業界用語?

 今年最後のネタは別の話題で書こうと思っていたのですが、ちょっとした「事件」があったので変更しました。「どうもこの業界には私にはわかりにくい世界があるようです。これから書いていることを実際に業界で言うと、私は変人扱いです。(笑)

 私は自分のことを「建築家」と呼んだことはありませんが、人に呼ばれることは何度かありました。人に呼ばれたらどうも背中がかゆーくなってきます。「建築家」を辞書で引くと「建築物の設計および工事の監督などを業とする人。(国語大辞典)」となっています。辞書にも載っているぐらいだから社会的にも認められた(?)職業なのでしょう。しかし、「建築家」という資格はありません。「建築士」という国家資格はあります。正確に私を表現すると”「一級建築士」という資格を持った「設計者」”で、自分でもそう言っています。それ以上でもそれ以下でもありません。先の国語辞典の「建築家」の解説はまさに「建築士」の解説ではないかと思って「建築士」を調べると「建築物の設計、工事監理などを行なう技術者として、国家試験に合格し、建設大臣の免許を受けた者。」とありました。狐につままれたような話しですが、なんだか「建築家」よりも偉そう?と思いますよね。

 そこで、ますますわからなくなるのは、「建築家」という職業・人です。国語辞典にどうかいていようが「建築家」は何よりも偉そうです。(名実ともに(?))はたと考えます。いつから「建築家」になるのだろう、誰がそう呼ぶのだろう。考えれば考えるほどわからなくなります。

 だから私はいつも「建築家」の前に(自称)をつけることにしています。つまり「(自称)建築家」と言えば世間もよく理解してくれるのではないでしょうか? 辞書にもあるとおり「建築家」には資格はいらないようですから、「私は今日から”建築家”です。」といえばあなたもいつでも「建築家」になれるのです。(「建築士」はちゃんと試験に合格してからにして下さいね。さもなければ立派な詐欺に当たりますので、ご注意を。)

 しかし、世の中には「(自称)建築家」が多いこと。たいてい「(自称)建築家」は「先生」ですから、何とも不思議な世界です。実はこの「(自称)建築家」の「先生」の集まりに顔を出すと「○○先生」「やぁ、××先生」などという実に滑稽な会話が聞けます。これはこれで楽しいものですが、冷静に考えると変です。お互いが「先生」だったら、誰が「生徒?」と周りを見渡したくなります。「先生」については以前に述べたのでここでは多くふれませんが、どうも「建築家」とか「先生」とか呼ばれることに快感や満足感を得る人が多いようです。(実際に学校の先生もいますから職業名としての先生と呼ばれる人もいますけどね。)

 自称でも何でも呼ばれたり呼んでいるうちはあまり実害がないので別に構わないのですが、その「(自称)建築家」の「先生」が好んで使う言葉に「作品」というのがあります。業界では「自分が手がけた、設計した物件」のことを指すようです。今日はすべて辞書を引いておきましょう。「作品」とは「作ったもの。製作物。特に、絵画や彫刻、詩歌や小説などの芸術上の製作物をいう。」とあります。ま、結局辞書を引いたって何の解決にもならないいい例ですが、「作品」とは何なんでしょうね。

 だいたいあなたがお客さんだとして、仮に3000万円の大金を払って「設計者」に相談して設計をして、工務店に工事を頼んで、家を建てたとします。それをその「設計者」が突然「これは私の”作品”です。」なんて言われたら気分悪くないですか? 「これは私の住宅です!私のお金で建てたものです!」と言いたくありません? 私はいつも言っていますが、「設計者」がその家の設計を決めているわけではありません。決めたのは決して「設計者」ではありません。「設計者」がしていることはただ一つ。お客さんの思い描いているものを形にして図面として表現し、現場に足を運び施工者がお客さんのイメージ通り造っているかどうかを確認する、ということに過ぎません。つまり、お客さんの代弁をしているだけであって、決してそれは「設計者」が創作したものではありません。ましてや「作品」などと言うべきものではないのです。もちろん自分が金を出してすべて好きなようにしたのであれば大いに「作品」と呼んで下さい。しかし、人の金で「作品」を造るなんて言語道断です。と私は思います。(もっともあまり意識せずに「作品」と呼ぶ人もおられますし、呼ばれることもあります。どんな言葉・用語を使っているかではなく、どういうつもりで使っているかの違いですが・・・。)

 そこを踏み外すと後々とても大変なことになります。つまり「設計者」も平たく言えば「お客さんが雇っている」わけです。雇われ人が雇い人の願いや希望を聞かないなどと言う事はどんなサービス業をみてもあり得ません。しかし、この業界にはしばしば起こりうるのです。「建築家に設計を頼んだのはいいが、全然言うことを聞いてくれないし、使いにくそうな家になってしまった。」と不満を漏らすことになるのです。だから「設計事務所に住宅の設計を依頼する人は恵まれた人か変わった人だ。」と言われるのです。そうハウスメーカーや工務店は首を横に振ることは滅多とないからです。

 もちろん私もお客さんの言うことをすべて聞いているわけではありません。また、お客さんの言う通りに実行して「美しくなく」てもいいとは思いません。私もそうですが、人は自分の専門以外のことはわからないことがあっても「そうだと信じている」ことがあります。たとえば「こんな場所にこんな家にすみたい。」という思いがあると、それ以外の選択肢がないように考えるものです。これは動物が生きていく上でとても大切なことです。しかし、私たちは人間社会の中で生きています。いろいろな人と話す機会があります。こういった思いこみというのは実は自分以外の専門家と話しをしていくうちに、「なるほど、こんな選択肢もあるのか。こんな考え方もあるのか。」と思うものです。そうすると、「自分はこうだ!」と思っていたことが実は”考え間違い”していたかもしれません。そしてそれに気づくかもしれません。あるいは気づかないかもしれません。だから設計者には信念が必要なのです。そして「それが良かった」と思わせる実行力が必要なのです。そういう意味で私はお客さんの希望をすべて聞いているわけではないのです。お客さんにとって「今は良くても、将来困りそうなこと。今はそう思っているけどきっと気が変わる。」と思われることは、そうならないようにあらかじめ先回りして設計をします。そして造ったときには疑問や不安が残っていても、必ず時間がたつと「あのときこうしておいて良かったなぁ。」と思われるようにしています。

 またお客さんの希望を形にして図面にすると、決して美しくなく、使い勝手のいいものにはなりません。それはお客さんだってわからなくて思いこんでいることが多いからです。だから設計者が少し道を修正することで「美しく、使い勝手のいい、快適な」住まいが誕生するのです。

 ハウスメーカーや工務店はそういった手間が面倒です。信念を持ってお客さんとやり合ったり、説得したりすることはとても大変なことです。もうけになりません。だからしません。だから、「お客さんの(今の)希望通り」家が建つのです。だから美しくなく、ちょっと使い勝手が悪い部分があったりします。日本人の平均的な人が求めていると思いこんでいる家が、画一的で同じような間取りの”ワンパターン”住宅になるのです。もちろんそれを否定するつもりは全くありません。ハウスメーカーが日本の住宅産業を支えていることもまた事実です。しかし、すぐに使い勝手が悪くなったり、自分の生活にあわなくなっていることも多いのです。私のところに相談にくる戸建てリフォームもハウスメーカーが建てたものも少なくありません。お客さんの満足度は決して高くありません。

 そうこれが日本の現在の住宅の現状です。

 「作品」と言って自分の考えをごり押しする「先生」がいて、

 Yesマンとなってワンパターン住宅を作り続けるハウスメーカー、

 小さい敷地にまとめて建ててたたき売りしている建て売り。

 もちろん、「作品」にすむことをステータスとしている人もいます。ハウスメーカーや建て売りに満足する人もいます。そのことを否定するつもりは全くありません。

 でも、私は時々、いつから”家を持つことが目的になった”のだろうと考えます。順序が全く逆ではないですか。「私(たち)はこれからどのような生き方をしようか、暮らしをしていこうか」を考えて、そして「どのような家に住めばいいか」をよく考えて、「賃貸がいいのか持ち家がいいのか、戸建てがいいのかマンションがいいのか、都会がいいのか田舎がいいのか」などを思いめぐらし、その選択肢の一つ、ほんの小さな一つとして、「家を建てる」というものがあるはずです。「家を持たなければ生活が始まらない」なんてことはないのです。その最初の段階「どのように生きようか、どのように暮らそうか」を相談するのが他でもない設計事務所のはずです。設計事務所は家を設計するだけではないと思います。「設計事務所」という名前をつけていますが、本当は「(人生)設計相談所」だと思っています。答えを教えてもらうところではなく、一緒に考えてくれるところです。それが本来の「設計事務所」のあり方だと思います。

 2003年の最後に長々と書きました。最後までおつきあい頂きありがとうございました。

 皆さんにとって来年が良い年でありますように。

 そして、2004年をあなたの「暮らしを考える」元年にしましょう。

 本当に「作品」でいいですか?